「あかね噺」は主人公の桜咲あかねが女性落語家として数々の困難やライバルと対峙しつつ成長していく様子を描く少年ジャンプの人気作品です。今年4月からはアニメ化もされ先日無事最終回を迎えました。
私は連載当時からこの作品が異常に好きで、下手をしたら永遠のバイブルであるスラムダンクすら超えて歴代No.1ジャンプで一番ハマった漫画なんじゃないかと思っているほどなのですが、アニメを観て改めてなんで自分がこの作品にこんなに惹かれているのか考えさせられました。
結論から言うと、この作品は「死とその先にある生」をずっと描いていたのです。

生命の死以外にも人は死(終わり)を迎えることがあります。精神の死、運命の死、あるいは1話であかねの父がそうなったように職業上の死、表現者としての死もあれば、11話で一生師匠が懸念していた落語業界の死(凋落)もあります。
様々な困難から生きているのに突然の不幸に見舞われる、あるいは希望を失い生きながら死んでいるのと同じ状態になってしまう、誰もがそうなりうる時代だからこそ、この作品は落語という少年漫画としては珍しいテーマを選びながらもジャンプの看板作品になれたのかもしれません。
至上命題「落語を広める」とそのための生と死の物語
「あかね噺」の命題、作品を通してやりたい事はアニメになってからよりクリアになったと感じました。ずばり「この作品を通して一人でも多く落語を好きになって欲しい」でしょう。
実力も人気もある声優さんを1年の落語修行させたり、ベテランのアニメスタッフを揃えたり、主題歌に桑田さんを起用したのもそのためです。
特に1クールのクライマックス、10話の可楽杯の寿限無は見事でした。結末を知っているにもかかわらずちょっとグッと来てしまった。
この「落語を広める」という命題はアニメに限らず漫画もそうなのだと思います。
あかねのビジュアルに始まり、魅力的なキャラ、落語の一席が作中の現実とリンクする見事な構成。
これらはすべて落語をより魅力的に見せるための装置です。そして描いている内容を「落語に留まらないエンタメに関わる者の生と死」にしているのも落語を知らない現代の人の心を掴むためでしょう。
11話で一生師匠が言ったように今は落語以外にエンタメは山ほどある時代です。それはプロだけではなくアマチュアも含めて創作者が大量にいる世界である事も意味しています。
プロでなくとも文章を綴ったり、絵を描いたり、映像を作る、誰もが創作に関われる時代だからこそプロ中のプロである真打の芸は揺らぐことはあってはならない。
厳しい一生師匠の言葉の裏には多くの創作者の死が隠されています。評価を得られず表現を諦めた者、プロの座に至れなかった者、そしてプロになったにも関わらず時代に翻弄され本懐を遂げられなかった者。
連載がスタートした時はまだだったので流石に偶然だと思いますが近年は生成AIの登場で今まで食えていたプロですらその存在を脅かされる時代になりました。
そんな創作の死が溢れる時代で逆境に負けずライバルや仲間を得て生き生きと庶民の喜怒哀楽を語るあかねの姿に私は希望を見ているのかもしれません。
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